冷戦の始まり


 米ソ対立は、1947年ころからヨーロッパであらわになった。この年、ソ連はヨーロッパ諸国の共産党との連絡組織としてコミンフォルムを結成し、東欧諸国では共産主義体制が樹立され、ソ連の「衛星国」化が進行した。
これに対し、アメリカのトルーマン大統領は、1947年ソ連「封じ込め」政策の必要を訴え(トルーマン=ドクトリン)、ついでマーシャル=プランを発表し、翌48年には西欧諸国に対して経済復興と軍備増強のための政策を実施した。こうして、アメリカを盟主とする西側(資本主義・自由主義陣営)とソ連を盟主とする(社会主義陣営)という二大陣営が形成された。
 分割占領下のドイツで緊張は頂点に達し、1949年、ドイツは西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)に分断された。さらに、この年西側諸国は共同防衛組織として北大西洋条約機構(NATO)を結成した。いっぽうソ連は、1949年に原爆開発に成功し、1955年には東欧8カ国友好協力相互援助条約(ワルシャワ条約機構)を結んだ。こうして核武装した東イデオロギーなどあらゆる面で激しい争いを展開した。この対立を「冷たい戦争(「冷戦」)とよんでいる。
東アジアでも、中国革命によって米ソ間の緊張がいっきょに高まった。中国では、国民党と共産党が内戦に突入し、1949年10月には北京で中華人民共和国(主席・毛沢東)が成立した。
翌年には中ソ友好同盟相互援助条約が成立し、中国は東側陣営に加わった。敗れた国民党は台湾にのがれて、中華民国政府(総統・蒋介石)を存続させた。



占領政策の転換


 中国情勢の変化をみたアメリカは、当初の占領目標は達成されたとしても、対日占領政策を転換し、経済復興と再軍備を強く日本に求めるようになった。
1948年1月にアメリカのロイヤル陸軍長官が日本を共産主義に対する防壁にせよとの演説を行って以後、政策の転換が具体化した。日本の諸外国に対する賠償は軽減され、過度経済力集中排除法にもとづく企業分割は緩和された。
同年末、政令201号で国家公務員法が改正され、労働運動の中核であった官公庁労働者は争議権を失った。
 占領政策の転換と同時に、日本の政治にも転換が生じた。1948年10月、芦田均内閣が倒れると、民主自由党単独の第2次吉田内閣が成立し、翌年1月の総選挙で民主自由党は絶対多数の議席を獲得した。
GHQは、日本経済の復興に向けてつぎつぎと強硬な措置をとった。1948年12月には、第2次吉田内閣に対して、予算の均衡、徴税の強化、賃金の安定、物価の統制など経済安定九原則の実行を指令した。翌49年、銀行家のドッジが特別公使として日本に派遣され、一連の施策を指示した(ドッジ=ライン)。
まず、まったく赤字をゆるさない予算を編成させ、財政支出を大幅に削減した。また、1ドル=360円の単一為替レートを設定し、日本経済はドル経済圏と強く結び付けられ、国際競争のなかで輸出振興をはかることになった。
 ドッジ=ラインによってインフレは収束して物価は安定したが、不況が深刻化して中小企業の倒産が増大した。これに行政や企業の人員整理がかさなって、失業者があふれるようになった。人員整理の強行には、共産党・産別会議や国鉄労組などを中心とする労働側も激しく抵抗したが、1949年夏に国鉄をめぐって続発した下山事件・三鷹事件・松川事件などで嫌疑をかけられた影響もあり、労働側は結局押し切られた。